聖書／マルコによる福音書　第10章17〜27節

　ただいま、マルコによる福音書10章17節から27節までをご一緒にお聞きしました。17節に「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』」とあります。主イエスのもとに一人の人物が走り寄り、ひざまずいています。この人物について、マタイによる福音書19章には「青年であった」と記されています。ルカによる福音書18章を見ますと「金持ちの議員であった」と言われており、そこからするとあまり若くはなかったという印象を受けます。今日聞いているマルコによる福音書では、若かったともある程度の年配だったとも記されず、ただこの人が「主イエスのもとに走り寄り、ひざまずいた」その姿だけを伝えています。そうすることで、この人物の問いが決して揚げ足取りを狙ったり、主イエスを罠にはめてやろうという悪意から出たものではなく、真摯な思いで問うたことを表しています。この人は真心から、自分が長年にわたって抱えている疑問と悩みを主イエスに申し上げて、答えをいただきたいと願っているのです。

　この人は、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねました。ここに出てくる「永遠の命」という言葉は、私たちにはあまり馴染みのない言葉かもしれないと思います。当たり前のことですが、地上の命には限りがあります。私たちは、生まれたらいつまでも際限なく生き続けるわけではありません。「永遠の命」と聞かされますと、本来限りあるはずの命がいつまでも続くかのように感じられて、戸惑いを感じてしまいます。
　しかしこの人は、不老不死を願って主イエスにこのようなことを尋ねたわけではありません。「永遠の命」というのは、元々は旧約聖書ダニエル書の中に出てくる言葉です。ダニエル書12章2節に「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り　ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」とあります。ここに述べられているのは、神が最後の審判をなさる時の情景です。その審判を受けるために、ひとたび死んで塵の中に隠れている者も、一旦皆復活をさせられると言われています。そして神に喜ばれる生き方をした人々は永遠の生命を受け継ぐ者となり、逆に神抜きで生き、神を無視してきた人は、永久に神無き者として救いの無い中に放置されていくことになると語られています。
　これが「永遠の命」ということであるならば、主イエスの前に現れた人の「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」という問いは、別に言えば、「どう生きることが神さまに喜ばれるのでしょうか」と尋ねたということになります。

　この人は、極めて真剣に主イエスの言葉を聞きたいと願って、主イエスの前にひざまずきました。ところが、この人に対する主イエスの最初の返事は、随分つっけんどんなものでした。18節に「イエスは言われた。『なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない』」とあります。主イエスはこの時、この人が真剣に尋ねたいと思って問うた言葉にお答えになる前に、主イエスに呼びかけた、その呼びかけの言葉を問題になさいます。まるで本筋の話に入る前に、ふと挟んだ一言を聞き咎め、話の腰を折っておられるような、そんなおっしゃり方です。一体何を聞き咎められたのでしょうか。
　実は、主イエスは明らかにこの人を気遣ってこの言葉をかけておられます。そのことは、後のところで主イエスがこの人をじっと見つめて慈しんでおられる様子からも分かります。しかし、この人の言葉の一体どこが主イエスの気にかかったのでしょうか。それは主イエス御自身の言葉から分かるのです。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか」という言葉です。

　この人はどうして、主イエスに向かって「善い先生」と呼びかけたのでしょうか。もしかすると、あまり深い意味や思いはなくて、ただ丁寧に言葉を選んで話したつもりだったかもしれません。けれども、「善い」という呼びかけには、ある種の評価が込められているということは確かです。もしも誰かのことを殊更に善い先生と呼ぶのであれば、その反対側にはあまり良くない先生とか、あるいは悪い教師というのがいるはずです。主イエスはそういう評価を下す主体は一体誰なのか、どなたなのかということを気になさっておられるのです。
　この人が主イエスに向かって「善い先生」と呼びかけた、その「善い」というのは、あくまでもこの人自身が主イエスのことをそう思って言っています。けれども、人間の評価あるいは判断というものは、些細なことで変わってしまうようなところがあります。「善い先生」と呼びかけて話しかけたこの人であっても、何か主イエスが気に入らないことをなさったら、すぐ簡単に主イエスのことを悪い教師だと言うかもしれないのです。それは、主イエスの側が善から悪に変わったからということではなくて、人間の側の気まぐれで移り気な判断が評価の基準になっているからです。
　この最もわかりやすい例は、主イエスが今向かっておられるエルサレムにお入りになった時のことです。群衆は「ホサナ」と言って、主イエスを自分たちの救世主であるかのように出迎えましたが、それにもかかわらず、その同じ人たちがわずか数日後には「イエスを十字架につけろ」と叫びました。私たち人間には、そのように定まりのない落ち着きの無さがあるのです。

　主イエスは、この人が「善い先生」と呼びかけた言葉を聞いて、この人としては好意的に主イエスのことを捉えているつもりだということを理解なさいました。しかし、この人が言っている「善い」とはどういうことなのか、「本当の正しさ、本当の善さというのは神から与えられるものしかない」ということを、主イエスはここで伝えようとなさっているのです。
この人は、「神さまに喜ばれる正しいあり方、永遠の命をいただけるような正しいあり方について、主イエスとの議論の中でなら見い出せるのではないか」と思っていました。けれども主イエス御自身は、この人が主イエスにではなく、神に思いを向けるのでなければ、神に喜ばれるあり方を見出すことはできないとお考えになり、そして言われたのが19節の言葉です。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。主イエスがこの人の思いを向かわせようとしているのは、十戒の2枚目の板に書かれている人間同士の交わりについて教えている事柄です。つまり、「神さまに喜んでいただける、永遠の命をいただけるような正しい生き方をしたいのなら、神さまの御言葉である十戒に聞き従って生活するのがよろしかろう」と、主イエスはまことに最もなことをおっしゃいました。

　するとこの人は答えました。20節に「すると彼は、『先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った」とあります。これは、言い逃れで言っている言葉ではありません。この人は本当に純真に、自分は旧約聖書の言葉を守ろうと思ってきたし、守れているつもりでこう返事をしているのです。けれども、このように自信たっぷりに、「わたしは神さまの御言葉に従うことができている」と言う人に対しては、きっと様々な感想を抱くことがあるだろうと思います。中には、こういう答えが出てくること自体、十戒に込められている深い意味を理解していないと厳しい目を向ける方がおられるかもしれません。
　ところが主イエスは、この人に対して厳しい目を向けるのではなく、この人を慈しまれました。確かにこの人が自分自身の有り様を分かっていないと言ってしまえば、それはその通りだと思います。しかし主イエスは、この人のためにも十字架に架かってくださるのです。そして、自らが十字架に架かってくださる方として、「従って来なさい」と招いてくださいました。21節に「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい』」とあります。主イエスは、「わたしがあなたと一緒に生きてあげるから、わたしに従って来なさい」と言われました。

　けれども私たちは、ここで主イエスがおっしゃっている厳しい要求にしばしば気を取られてしまいます。腰を抜かすほどびっくりすると言ってもよいかもしれません。「持っているものを売り払いなさい」というのは、「余っているものを処分しなさい」ということではないのです。「持ち物すべてを手放して貧しい人々に分けてあげた後、あなたはまことに貧しい者の一人となって、わたしに従いなさい」と主イエスは言われました。主イエスはどうしてこんなにも厳しい要求をなさるのでしょうか。弟子たちもここに語られた要求の厳しさに気がついて、驚くのです。26節に「弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った」とあります。

　しかし、実際に持ち物を処分するかどうかということはさておき、主イエスに従っていくということは、恐らくそういうことです。少し前の箇所で、主イエスがこれから御自身が受ける十字架の受難と復活のことを弟子たちに最初に教えられたときには、次のようにおっしゃっていました。マルコによる福音書8章34節に「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」とあります。主イエスに従って弟子として生きていくということは、財産どころか自分自身が主の僕（しもべ）となって生きていくということです。自分自身の地上の富や豊かさの中に安住して、持っている物の中からの余り物を献げてお付き合いするというのは、実は本当に自分を献げて主イエスに従っている姿とは違います。
　けれども、主イエスを信じ自分自身を献げて従おうとする時、そのところで私たちは、「主イエスは神さまに従って十字架に向かって行かれたけれど、そんなふうには、わたしはとても従うことができないし、また愛の面でもまことに乏しいものしか持っていない」ということを、まざまざと示されることになります。主イエス・キリストに本気で従おうとする人は、自分がいかに従うことが苦手であって、そしていかに自分が愛に乏しい者かということを思い知るようになるのです。
　そして主イエスに従う人は、「わたしは神さまの御言葉に従って、なすべきことをすべて行ってきました。子供の頃からすべてしています」と、そんなふうにうそぶくことができない自分というものに出会わされます。それはどうしてでしょうか。主イエス御自身が、本当にすべてを神に信頼して委ね、神に仕える生涯を辿っておられるからです。最後は十字架にさえお架かりになる、その主イエスが弟子たちの前を歩んで行かれ、弟子たちはその主イエスの光に照らされて、「いかに自分が従えない者であるか」ということに思い当たるようになるのです。主イエスの十字架のもとに立たされ、十字架の光に照らされる時、私たちは自分自身の破れ、自分自身の頑なさというものを、まざまざと示されます。自分がどんなに身勝手で自己中心的であるか、どんなに愛に乏しく、また神に信頼して忍耐し待ち望むことが苦手な者であるかということを示されます。
　けれども、主イエスの十字架の光に照らされる人は、そういう自分の弱さ、惨めさを照らされると同時に、「わたしのために主イエスが十字架に向かって行ってくださった。わたしの身代わりとなって十字架に架かり、わたしの罪を贖い、罪を清算してくださっている」ということを教えられるのです。そして、主イエスが私たちに「あなたの罪は、この十字架の苦しみと死によって精算がついているのだから、あなたはもう一度ここから歩み出してよいのだ」と呼びかけてくださっていることを知るようにされます。そのようにして私たちは、御国の民の一人とされ、永遠の命を受け継ぐ者たちとされていくのです。

　今日の箇所で主イエスは、「幼い時から、神さまの求めをすべて行なってきました」と純真に思い込んでいるこの人に対して、十字架へと向かって行かれる御自身の傍にこの人を立たせようとなさいました。主イエスがどうしてこの人を御自身の傍に立たせようとなさったのか。なぜ「わたしに従って来なさい」とおっしゃったのか。それはまさしく、この人が「永遠の命を受け継ぐ者になりたいのです」と願っているからです。
　「本当にあなたがそう願うのだったら、わたしがあなたを照らしてあげよう。あなたのために十字架に架かることを知らせてあげよう。そしてあなたはいつも、その十字架の光の下で自分を確認しながら、もう一度ここから歩んでよいことを知る者となるだろう」、主イエスはそうお考えになって、この人に「従って来るように」とおっしゃいました。そしてそうであっただけに、この人が主イエスを信じて自分の持っているもの一切を手放す代わりに、もともと自分が依り頼んでいた豊かな地上の富の方を選んでしまったことを悲しまれました。22節に「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」とあります。

　そして弟子たちを見回しながら言われました。23節「イエスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか』」。主イエスは一般論としてこう言っているのではなくて、本当に残念な思いでこの言葉を語っておられます。
　地上の富というものは、普通は私たちの人生を確かに、豊かにしてくれるものだと考えられています。しかし地上の財産、富はあくまでも地上のものでしかないのです。神に喜ばれる人生、神に信頼し神に支えられて生きる生活というのは、お金で買うことができないものです。どんなにお金をちらつかせても、それで神が人間になびいたり近寄ったりはなさらないからです。

　そして主イエスは、この時大変有名な言葉をおっしゃいました。25節です。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。びっくりするような言葉で、一度聞いたら忘れない、印象的な言葉です。「針の穴」とは、縫い針についている小さな穴のことではなく、当時の家々の門扉に設けられていた、くぐり戸が「針の穴」と呼ばれていたそうです。しかしすべての家に立派な門扉があるわけではなく、門構えのある家は裕福な家に限られていました。そういう家は、出入りの際に重い門扉を毎回開け閉めするのが大変だったので、門扉の中に小さな切り込みが入っていて、そこに通用口のような人間が通るだけの大きさの穴が空いていて、それが「針の穴」と呼ばれたそうです。もちろん人間は通れても、ラクダのような大きな動物は通れません。それに似て、この豊かな人の富がもう少し小さかったら、この人は自分の富の力に依り頼もうとしないで神に信頼して生きることができたのにと言って、主イエスは嘆いておられるのです。

　しかし弟子たちは、この言葉を聞いて驚きます。弟子たちが驚いたということは、弟子たちの中にも実は、地上の富や豊かさへの期待や執着があったことを表しています。
　けれども、おそらくそれは弟子たちだけのことではないのです。ここにいる私たちであっても、やはり最低限の富や豊かさは必要だという思いを、皆持っているのではないでしょうか。弟子たちの驚きというのは、ある意味では誰にでも当てはまる普遍的な驚きです。この世の富に全く惹かれず、ただ主イエスにだけに従っていれば大丈夫だとは、なかなか達観することができないのです。

　ですから今日の記事は、聞いていくうちに私たちは自分のことを考えてふと不安になるような、そういう箇所かもしれないと思います。
　主イエスはここに現れた裕福な人にも、そしてまた今日この聖書の話を聞いている私たちにも、「あなたは地上の富や豊かさの中に安住するのではなくて、そこから離れてわたしに従うのだ。あなたは神さまの慈しみと憐れみを信じて生きる生活へと一歩踏み出しなさい。わたしがあなたと一緒に歩いて、あなたの一生を照らしてあげよう」とおっしゃるのです。地上のことばかりを気にかけて心を乱すのではなくて、「神さまに従って、神さまの保護のもとにあることを信じて、いつも歩く者になりなさい」と主イエスは招かれます。「神さまの恵みの御支配が今、来ている。神の国がここに来ている。あなたはそのことを信じて、今からは生き方を変えて、神さまに信頼して、神さまの慈しみに励まされながら生きる、そういう人になりなさい」と、主イエスはそのように一人ひとりに呼びかけておられます。

　しかしそういう呼びかけを聞く時に、果たして私たちはそれに応えることができるのでしょうか。私たちはこの呼びかけに従っていくことができるのでしょうか。ただ一瞬だけ、それこそ清水の舞台から飛び降りるような覚悟を決めて、「わたしは神さまだけに信頼する」と口で言ってみることはできるかもしれません。あるいは一瞬だけ、そういうつもりになることはできるかもしれません。しかしそれは果たして、そうなる以上に繋がるのでしょうか。私たちは、「生涯に渡わって、神さまに、主イエスに従っていく」ことができるのでしょうか。
　主イエスは言われます。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。まさにこの言葉通りに弟子たちを持ち運び、私たちをも持ち運んでくださる、そういう主イエスがいつも私たちと共におられるのです。
主イエスが私たちと共に歩んでくださり、私たちを保護し支えてくださるからこそ、私たちは信仰を与えられた者として今日までの生活を生きることが許されているのです。

　今日はこの後、高齢者祝福式と逝去者記念式を執り行います。長い年月の間、神が信仰を励まして神の民として持ち運んでくださっている、そのことを感謝し、そしてまた世を終えた方についても、その生涯を通して神が持ち運んでくださったことを覚えて感謝の祈りを捧げます。神への献身とか、あるいは禁欲という点からみれば、まことに心許ないない私たちに、主イエスが「共に歩んであげよう」と言ってくださり、「わたしに従って来なさい」と招いてくださっています。